最近、食の安全性なんぞにあらためて目を向けている。
もちろん他のこともいろいろと…
きっかけはTPPだとか、この世の中の…
とくにコマーシャリズムに操作されてるもろもろの情報なんかだったりする
食ってのは、僕らの生活というか身体を維持することに密接にかかわってる。
食わなきゃへばるし、食いすぎりゃ肥える…
ことに人間の食ときたら、
ただ栄養を摂取するだけでなく、味や見た目、香りなど
五感をフルに使って楽しむことができるひとつの文化にもなっている。
その楽しくも美しい食は、いろんなものに脅かされている
農薬、食品添加物、遺伝子組み換え作物、放射能…
そして
安全なものは高価で、安全性の低いものはおおむね廉価だというのも考え物だ…
もちろんそうばかりではないけれど…
食べ物に関するあれやこれやに思いを巡らせる今日この頃だけど、
今日は「食べる」ということに集中してみた。
今夜の晩飯は、米(5分突き米)と納豆、油揚げとわかめの味噌汁…
超和風の豆豆しい食事 質素~
ネットラジオを流しながら飯の準備をして、
「さて…と…、いただきます」と味噌汁をひと啜り、飯を一口…
飯を咀嚼しているときに、ふと思い立ってネットラジオを消してみた。
しんとした食卓で、
自分が顎を動かして飯を噛む音に耳を傾け、
舌が噛み砕かれていく米粒を攪拌する。
米粒はだんだん甘みを増していく。
ただ淡々と咀嚼を続けていく。
いつもよりもたくさん噛み続ける。
米や納豆は粥状になっていく。
もちろんその間に、顎は動き続け、
舌ももちつきの合いの手よろしく絶妙のコンビネーションで動き続ける。
喉で飲みこみ、食道は消化工場へのベルトコンベアの役を果たす。
箸を運ぶ手指だって動いている。
足は胡坐をかいて、腰と一緒に身体を支え続けている。
ただ「食べる」と言っても、いちどきにたくさんのことをしているものだと思う。
人間てのはつくづく「マルチタスク」だなと思う。
それを、普段は食いながら何かを目で追ったり、
人としゃべったり、何か聞いたり、もの思ったりと
わざとせわしない状態にもってって、
それがさもあたりまえのように過ごしてしまう。
もっと「マルチタスク」ができると言わんばかりだ。
それが合理的で効率的っぽいとかね…
そうなると、なんだか「食べる」ことがついでごとのような…
「食べる」ことなんかに貴重な時間を割いていられないとでも言うような…
そんなだと、なんだか燃料を身体に放り込んでるみたいだな…などと思った。
時折感慨にふけりつつ、やはりゆっくりと食事を進めていく。
いつもより穏やかに膨れていく腹具合を感じていると
「これでいいよね」と身体が言ったような気がした。
「ふむ」と思って、心静かに、まだゆっくりと味わいながら食っていると、
「これがいいよね」と心が言った気がした。
なんだか、今夜の晩飯は、ちょっと瞑想みたいな食事だった。